ペット(さよならのことば)




平成7年1月17日未明、信じられないことが起こりました。阪神淡路大震災。 この日の夜、私の実家でもひとつの命が天へと旅立っていったのです。

ある年の夏、車でドライブをしていた私と父は、たまたま通りがかったペット ショップでじっとこちらを見つめている可愛い目に誘われていました。小さな 犬舎におさめられて街行く人々を眺めているその目は、人を引き付けるに充分 でした。「かわいい!」と叫んだ私に小犬はしっぽを振って愛想を振りまいて いるようでした。それはまさに「連れて帰って!」と言っているようでも ありました。父は何も言わず財布から3万円を出し、その小犬を引き取ったの です。

小さな段ボール箱が当初はこの子の家でした。「わんこ!」とか呼んでいたの ですが、やっぱりまず名前を決めなければいけません。当時幼かった姪が不意 に「ポチ!」と呼んだらちぎれるほどにしっぽを振って近づいていったのです。 このときからこの子は「ポチ」と名付けられました。ポチは幼い子供と遊ぶの が本当に好きだったようです。いくらしっぽを引っ張られても喜んであとを ついて回っていました。子供の方も懐いてくれていることを判っているのか、 笑いながら逃げ回ります。

そんな幸せそうな毎日を過ごし、ポチはすくすくと育っていきました。 ある日散歩に連れ出したとき、広場に警察犬がいることに気付かず、 放して遊ばせていました。ポチは自分の領地に見知らぬ犬が居ることに怒った のでしょう。猛烈に吠えながら警察犬に近寄っていきます。 大型犬は突然の 襲撃に戸惑ったようでした。結果、ポチはしっぽをかまれ退散していましたが、 ポチはこれでもなお自分の領地を誇示するかのように相手を睨み付けていたのです。

弟の運動会の日、父はβムービーカメラ(βビデオカメラの初期タイプ) というのをレンタルしてきました。兄はそれを独占していろいろなものを撮影して いました。運動会の前日、近くの山でポチと私と弟が遊ぶのを兄は撮影していました。 弟が遠くポチから離れて「ポチィ!」と呼びます。すると、今までこちらを見ていた ポチは弟の方に向き直って一目散に飛んでいきます。弟は自分の近くまで来たことを 見て、こちらに一気に駆け出します。ポチも慌てて方向転換します。が、山道だっ たために、兄のカメラの前で滑ってしまって派手に転んでしまいました。兄は カメラを抱えたまま大笑いしていました。それを見たポチは「ワンッ!(笑うな!)」 と一喝してこちらへと走ってきたのです。

ポチは、本当に家族の一員でした。まだ小さかった頃は、弟が幼い頃に買った ダンプカーのおもちゃの荷台にすっぽり入って眠っていたものです。 それが今では頭しか入らないくらいになっていました。結婚で私が関東に出てしまった あと、帰省したときに遠くからいつもの口笛をふいてあげると、もう私だと わかったのでしょうか、遠くでワンワン!と声が聞こえます。 あるとき、私が実家に電話をしたとき、誰も出てきませんでした。突然受話器が はずれる音がしたので、「もしもし!」というと「ワン!」という声が。 すぐに母に代わったのですが、なんとも受話器を外したのはポチ本人だったのです。 受話器から聞こえる声に驚いたのか、一声を残して逃げていったそうです。

平成7年1月17日午前5時46分、それはやってきました。幸せそうに眠りに 就いている家族やペットを突然それは襲ったのです。私は関東で日課の6時からの 番組を見ようとテレビをつけました。その画面には信じられないような光景を 映し出していました。神戸市内の映像。つい1週間前までいた、神戸の映像。 私はとっさに実家へのダイヤルを回していました。が、まったくつながる様子が ありません。もう居ても立ってもいられない状況でした。でも、どうすることも できません。ただテレビの向こうで絶叫するアナウンサーの声を聞いているだけ でした。

正午過ぎ、ようやく公衆電話の順番が回ってきたという家族から電話がありました。 家の方は被害を受けたようだけども、家族は全員無事とのこと。私はほっとして しまって、思わずその場に座り込んでいました。

その夜、私は夢を見ました。ポチが私の方に向かって「ワンッ!」っていいながら しっぽを振っているのです。私は夢の中で口笛をふいていました。

翌朝、実家からの電話はこうでした。敢えて関西弁のまま書きます。

「ポチやけど、昨夜死んでん。夜中にな、えらい吠えるなぁ思て、家の中に 入れてやったんやけどな、ストーブの前にピターっとくっついてじーっと しとったんや。そしたらな、急にみんなの方じっと見て、ワン!ゆうて 吠えてな、それから目ぇあかへんかった・・・」

ポチは、最後に何ていったのか、誰にも判りません。最後の「ワンッ!」という声は 何を言いたかったのでしょうか。ポチのさよならのことばを胸に、またポチのお墓に 手を合わせています。享年14歳。大往生だったといえますが、老体に地震 のショックは大きかったのでしょう。


<完>

Written by Marumi.