山峡に警笛が響くと駅長さんがホームに上がって来る。「くろしお撮るんかい?ぶれ やんようにしっかりねらわんしよ」。次の駅へのタブレットをキャリアに取り付けな がら笑う。
ここは大内山。海抜173メートル。紀勢線ではとなりの梅ケ谷についで高い。近く を流れる宮川もここではほんのせせらぎ。大河となって伊勢市を抜けるのははるか 先の話である。 春先では茶畑も人気はなく、少し離れた楽器工場から時折物音が聞こえて来るくら い。
のんびりした空気の中、くろしお号は少しあえぎながら登って来た。ここを過ぎて 、次の梅ヶ谷で苦行は終わる。あとは紀伊長島までいっきに下るのみ。
だが、今日は少し遅い。駅長さんも首をかしげる。と、「ファ、ファ、ファ」と短笛 三声。車内で何かあったのか。運転席からタブレットを持った助手が身を乗り出し てタブレットを投下。続いて1、2、3、、四両めの車掌室から車掌長が顔を出し た。「たのみまーす」大声でさけびながら小さな筒を駅長さんの足元に投げてきた。
筒のなかには巻いたメモ。「車内にて急病人発生。50代、男性、心臓に持病」駅 長さんは隣の駅へ通過を知らせるのもそこそこに別の鉄道電話をとって「こちら大 内山、キニハ、1列車 手配請う」ときりだした。
「ちょっと、待ったてね」と窓口の前で切符を買いに来たおばさんに説明するのは 私の役目になった。列車無線が普及していない20年前の出来事である。